中央競馬の騎手の顕彰者は現在7人です。その中で馬事公苑花の15期生は3人(福永洋一氏、岡部幸雄氏、柴田政人氏)もいます。その中で私が好きだった「不世出の天才騎手 福永洋一」について述べます。
福永洋一氏は、現在では福永祐一氏(現調教師)の父親として知られているのかもしれません。
デビューは馬事公苑同期の岡部幸雄氏、柴田政人氏等より1年遅れの1968年でした。1年落第したとのことです。
私が競馬に興味を持つ前の1970年(騎手生活3年目)から、リーディングジョッキーとして活躍していました。岡部幸雄氏、柴田政人氏はその後活躍し、ダービージョッキーになりましたが、当時は福永洋一氏の足元にも及ばなかったと思います。
そして、福永洋一氏を好きになったのも競馬に興味を持ち始めた1977年でした。
福永洋一氏は1977年の春のクラシックシーズン、インターグロリアで桜花賞、ハードバージで皐月賞を勝ちました。2週連続でクラシックレースを制覇したのです。特にハードバージが中山競馬場の内らちから差してきたのは、頭の片隅に残っています。
インターグロリアは優駿牝馬(オークス)も勝つ力があったと思うのですが、「フケ」の症状が出たとの記事があり、本調子を持続できず14着に惨敗しました。当時はインターネットもなく、調べることも行わなかったので、意味もわかっていませんでした。「フケ=発情」であることを知ったのは後日でした(いつ頃知ったかは覚えていません)。
東京優駿(ダービー)で、福永洋一氏はハードバージに騎乗しませんでした。ホリタエンジェルに騎乗しました。先約がホリタエンジェルだったためとのことです。現在は、多くの騎手に騎乗依頼仲介者(エージェント)がついており、有力馬の騎乗依頼が重なった場合でも騎乗したい馬に乗ることができると思いますが、当時は騎手本人が直接断わるしかなく、先約の方を断るのは難しかったようです。
ホリタエンジェルは3連勝の後、ダービートライアルのNHK杯で2着になり、関西の秘密兵器と呼ばれていた記憶があります。しかしながら、結局本番では15着でした。一方のハードバージは頭差の2着(名人と言われた武邦彦氏騎乗、武豊の父)でした。もしハードバージに騎乗していたら、ダービージョッキーになれたのではないかと当時思いました。ちなみにそのときのダービー馬ラッキールーラは巨漢馬で、引退後は種牡馬として韓国に渡った記憶があります。そのとき騎乗していた伊藤正徳氏は馬事公苑花の15期生の一人でした。
翌1978年にはオヤマテスコに騎乗し、桜花賞を連覇しました。また、ダービーではカンパーリに騎乗し3着でした(最近まで4着と思っていました)。結局ダービージョッキーにはなれませんでした。
翌1979年、桜花賞3連覇を目指しての騎乗候補の1頭だったマリージョーイに毎日杯で騎乗し、落馬事故にあい、騎手生命を絶たれることになりました。
その後は、リハビリの姿を見たりしていました。最近では車いすに乗っている姿を見ていますが、残念ながら騎手には戻れなかったですね。
あまり一般に知られていない馬で福永洋一氏が騎乗した馬で以下の馬の名前を憶えています。
・インターメディア・・・インターグロリアと同一馬主・調教師でこの馬で桜花賞連覇を目指す可能性もあるかと思いました。
・ダイタクオーザ・・・父はミンスキー(ニジンスキー(マルゼンスキー、ヤマニンスキーの父)の弟)。残念ながら2戦2勝で引退したのですが、1978年のクラシックレースに出るかと思っていました。
・チュウオーダービー・・・名前がよく、武田文吾厩舎所属なので、1978年のクラシックレースに出るかと思っていました。(成績を見ると、1200mばかりに出走していたのですね。デビューから4戦連続2着は記憶していましたが、距離は記憶していませんでした。)
以上