管理人自己紹介にも記載しましたが、私の好きな馬にトウショウボーイがいます。最初に好きになった馬です。
いつもの通り、1977年6月5日の宝塚記念の前日に競馬ブック(もちろん関西版)を買いに行きました。最初に私がそれを見ていたのですが、トウショウボーイの馬柱欄にはトラックマンの印はなく(つまり無印)、唯一、関西版本紙の欄に本命の印「◎」がついていました。たったの6頭立てなのに穴の印一つさえつかなかったのは、今となれば少し疑問が残ります。トラックマン全員の本命はテンポイントで、本紙の印は対抗を意味する「〇」でした。(競馬ブックの本紙本命は、在籍するトラックマンのうちの責任トラックマンが決定するはずなので、もしかしたら関東のトラックマンのどなたかの印を本紙本命にしたのでしょうか?よくわかりません。)
当時はGI級レースの前に前哨戦として1~2走程度走るのが当然で、最近のようなぶっつけ本番はほとんどありませんでした。当時は平場レースにもオープンレースというのが時々あり(最近は見かけません)、それを前哨戦として選択する場合もありました。トウショウボーイは前年の有馬記念から約半年ぶり、一方のテンポイントは前走の天皇賞(春)も勝利し、打倒トウショウボーイに陣営も燃えていました。テンポイントの印が重くなるのも仕方がないことでした。一番人気もテンポイントであり、トウショウボーイは二番人気でした。
そんな中、1977年の宝塚記念がスタートしました。当時の映像は、JRAのホームページにもnetkeibaのホームページにも残っていませんでしたが、私の記憶ではトウショウボーイが逃げ、テンポイントがニ番手としてピッタリとマークしていました。スタート直後から半馬身程度の差で道中走っており、結局ゴールまでずっと半馬身程度の差で推移していったと記憶しています(成績表を見るとゴールでは3/4馬身差だったようです)。
そのレースを見てトウショウボーイに対しすごく興味がわきました。
宝塚記念までのトウショウボーイの成績表を見ると、菊花賞の3着はありましたが、ほぼ完璧でした。一番目についたのは、神戸新聞杯(当時の距離芝2000m)のタイム:1.58.9でした。今でこそ、芝2000mのタイムは条件戦でも2分を切ることがありますが、当時としては破格のタイムでした。当時調べましたが(インターネットもなかったので何かの新聞記事だと思います)、芝2000mのタイムで2分を切った他の馬は、芦毛の快速馬シルバーランドくらいでした。トウショウボーイより3歳ほどお兄さんですが、本馬の引退前に福永洋一が騎乗しておりテレビで見た記憶があります。
少し脱線しましたが、トウショウボーイは、宝塚記念の後は、記録によると4走ほど走りました。
8大競走には天皇賞(秋)と有馬記念に走りました。
天皇賞は距離のためか、生涯で唯一掲示板を外す7着に敗れました。勝ち馬はホクトボーイ(父はトウショウボーイと同じテスコボーイ)で、最後尾から大外を伸びてきた記憶があります。なお、当時、天皇賞は1回勝つとそれ以後は出走できませんでした。なので、テンポイントは出走していませんでした。そのような意味でも、一流古馬の目標とするレースは非常に限られており、そのためか、テンポイントは翌年海外遠征を計画し、その壮行レース(日経新春杯)の事故(骨折)が原因で命を落とすことになりました。
最後のレースは有馬記念でした。有馬記念は前年同様トウショウボーイが勝つと思いながら見ていました。8頭立てで、いわゆる3強TTG(トウショウボーイ、テンポイント、グリーングラス)揃い踏みでした。スタートからトウショウボーイ、テンポイントが先頭、2番手で推移していました。直線に入ると、そこに外からグリーングラスが強襲してきたのですが、結局、テンポイント、トウショウボーイ、グリーングラスの順で決着しました。3000mに満たない距離で、トウショウボーイがテンポイントの後塵を拝した唯一のレースでした。
有馬記念で引退しました。
4. 天馬 トウショウボーイ2に続きます。
以上