本投稿では、トウショウボーイのライバルであったテンポイントについて記載します。
当時、関東馬と関西馬では、関東馬の方が強かった記憶があります。その中で、関西からスターホース候補としてテンポイントが現れました。栗毛の非常にきれいな馬で、流星の貴公子と呼ばれていました。阪神3歳ステークスの時の関西テレビ 杉本清アナウンサーの「見てくれこの脚!これが関西の期待テンポイントだ!」は名フレーズ、名実況としてよく放送されていました(私は、このレースをテレビの生中継では見ていません)。
テンポイント(トウショウボーイも含む)のクラシックレース三冠はテレビの生中継では見ていませんというか、見ていたかもしれませんが興味を持っては見ていませんでした。興味を持って見たのは、1977年の宝塚記念でした。
ただ、そのレースを見て、トウショウボーイの大ファンになったので、テンポイントについては特にファンではありませんでした。
なぜ、テンポイントについて記載したのかというと、3. 天馬 トウショウボーイ1で少し述べたように事故があったからです。
トウショウボーイは1977年の有馬記念を最後に引退しましたが、テンポイントは翌1978年も現役を継続しました。有馬記念でトウショウボーイを破ったテンポイントは日本のNo.1ホースとして1978年に海外遠征を計画しました。その壮行レースとして日経新春杯を選びました。当時の日経新春杯はハンデ戦でした。最近、一流馬がハンデ戦に参戦することはほぼないですが、当時はレースの格付がうまく整理されておらず、一流馬でもハンデ戦に出走することがありました。そのレースでテンポイントに課せられたハンデは66.5kgでした。当時の出走表を見ると、エリモジョージも60.0kgを課せられてました。当時のエリモジョージの競走成績を見ると、63.0kgで出走したレースもあったようです。現在の障害レースのようですね。
ファンの声もありテンポイントは日経新春杯に出走しました。そのレースの4コーナーで事故が起きました。競走中止するほどの骨折でした。通常なら即安楽死になるような骨折(治る可能性が非常に低い骨折)でしたが、ファンの多いテンポイントは手術・闘病生活に入りました。私も毎日のように日刊スポーツを見ていました。ファンは奇跡を祈っていましたが、結局、蹄葉炎を発症し、残念ながら死にました。治る可能性の低いケガに対し、苦しい闘病生活を送らせる選択が正しかったのかどうか、論争を起こした記憶があります。テンポイントの事故以降は、一流の競走馬であっても、治る可能性が低い場合は安楽死になっているのではないかと思います(例えばサイレンススズカ)。また、過酷な斤量を背負う例もなくなっています。
以上